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(56) i, ROBOT

子供の夏休みに合わせて遊びまくってみたけれども一番楽しかったのは自分かもしれなかったさるべーじですこんばんは。

近所のほどよくひなびた遊園地へ行って、もー恐竜の卵の上で飛び跳ねたり襲われてみたりコリン星から来たお姫様に会い損ねてみたり30年前の味のジンギスカンを食ってみたり長男がゴーカートに次男がジェットコースターにハマりまくってみたりですよ。波が高くて海水浴場になっていない海へ行ってバーベキュー食ってみたり自作のおにぎり食ってみたり浮き輪で長男と波間をたゆたいまくってみたり遠浅だとタカをくくっていたら足のつかない沖まで流されて真っ青になって浜辺をめざして泳いだりスコップまで持ちだしてみんなで砂浜に穴掘って悦に入っていたら波一発ですべてが灰燼に帰したりなんだかそんな感じで。

以上たぶん読む方はさほどおもしろくないだろうけれども私は楽しかったんだよーことを大急ぎで語ってみました。

はっはっは。いー夏でした。


さて、「i, ROBOT」といぅ映画がもーじき公開されるよーなスンポーですね(No.6風)。20世紀FOXの公式サイトはこちら

「i, ROBOT」の元ネタは、アイザック・アジモフ博士のSF短編集「I, ROBOT」です。
現在入手するならハヤカワ文庫SFから邦題「われはロボット〔決定版〕」(小尾扶佐 訳、原題「I, ROBOT」(1950))として出版されています。
ちなみに私の手元にあるのは「わたしはロボット」(創元推理文庫SF、伊藤哲 訳)って奴ですね。今調べたら、いつの間にか創元SF文庫になっていて、びみょーに違和感。
もともとこの本は創元から出ていたんですけど、どーいぅわけか一頃からハヤカワからも別訳で出版されるよぅになっちゃったんですね。そのへんいきさつは知りませんけれども。若い人たちは「われは~」で読んでいる人が多いみたいで、「わたしは~」派のわたしとはちょいと袂を分かつかもしれません。

映画の舞台や人間関係ははもろにアジモフ博士の書いたロボット社会であり、USロボティックス社(USロボット・アンド・機械人間社)ありスーザン・カルヴィン博士ありアルフレッド・ラニング博士ありのおなじみの、といぅかうおおぉぉなシチュエーションで。

映画の紹介文では「SF界の巨匠アイザック・アシモフの「われはロボット」にインスパイアされて誕生したアクション・スリラー超大作」となっていまして、わたしはこのインスパイアってとこにひっかかってみたりするんですが。
殺人ロボットが出てきちゃうあたりでオリジナルストーリーなのは確かにそぅなんですが、物語世界を完全に引用しているわけですから、ほんとは「原作」と言っていただきたかったなぁ。


先日某ロボット映画を見た時に、「物語として成立していない」と言わんばかりの勢いでもぅれつにがっかりしてみせたわけですが。
なまじロボットってものに思い入れがある分、たぶん自分の中の解釈と噛み合わない部分があると拒否反応が強いのかもしれません。

そーいぅ意味では、アンドリューNDR114もひどかったなぁ。

こちらの元ネタは「聖者の行進」(創元推理文庫SF、池央耿 訳、原題「THE BICENTENNIAL MAN AND OTHER STORIES」(1976))のバイセンテニアル・マンから。こちらはちゃんと原作と謳ってくれてはいます。
ただこちらは、映画用にロバート・シルヴァーバーグがリライトしているよぅで。「人間とロボットの違いは何か?」と悩むロボットの動機を、人間の女の子への恋心に変えちゃったあたりでわたし的には台無しなストーリーになっています。

原作では、「人間になりたい」動機が「自我の発生」から来ているんですよ。いかに他者と巧妙に会話ができても、それはそぅプログラミングされた自動応答の技術の延長なのであって、「自分がここに存在しているといぅ自覚」、オカルトがかって言ってしまえば「魂」のような意識をロボットが持った時にどぅなるのか?といぅ仮定から「わたしは人間と同等の存在になりたい」→「ロボットが人間となるにはどぅすればいいのか?」といぅ考えから結論にたどり着くところまでがキモの作品だったんです。

それが、映画では「ぼく、人間になりたい。だって、リトル・ミスに恋しちゃったからさー」ってそれはないだろう

恋愛感情なんて、そんなに至上なもんかよ。

「ミセス・ダウト」「ジュマンジ」などでいーぃ演技してくれていたロビン・ウィリアムスがまたアンドリューでもナイス演技なのが逆恨みのよぅにいっそ腹立たしく。

まぁ映画として手っ取り早く収益を稼ぐためには<s>エログロナンセンス</s>恋愛・アクション・エンターテインメントに持って行かざるを得ない事情もすごくよくわかるんですが。

今この文章を書くために配給元ソニー・ピクチャーズの作品紹介を読んでたら、リトル・ミスリトル・スミスって誤植に。話のポイントになる女の子の呼称をさらりと間違えてしまうあたり、ほんっとーにどぅでもいい扱いをされているんだなぁ。と思うとちょいと涙が。


今回の「i, ROBOT」にしても、カルヴィン博士美人過ぎ、とか、三原則を前面に出している割には殺人ロボットとの対決がメインで「三原則と矛盾しない論理でいかに殺人を犯せたのか?」の謎解きの方にあまり注力されていなさそぅ、とか、原作のエッセンスを期待しちゃいけない匂いがふんぷんとしてきているわけですが。

まぁ過度の期待はせずに、それでもきっと楽しめるほどの出来になっていることを願って、封切りを待つことにしましょう。

楽しみー。…68%位の期待度で。


今回このエントリを書くために、書棚の奥からアジモフ本を何冊か引っ張り出してきました。

ロボット短編集として邦訳されてるものは、出版年順に「わたしはロボット」→「ロボットの時代」→「聖者の行進」の順ですね。
「わたしはロボット」「聖者の行進」は創元が初邦訳なんですが、「ロボットの時代」だけはハヤカワで(ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐 訳、原題「THE REST OF THE ROBOTS」(1964)、現在は「ロボットの時代 〔決定版〕」として発売中)。このへんいつどこからどんな関係の本が出てくるかわからなかった時代だったんで、追っかける方もいつも書店の文庫コーナーで目をぎらぎらさせていたのが懐かしく思い出されたり。

もともと短編集なんか、出版社の編集でどぅにでも編み上げられてしまう性質のものですから、必ずしも著者自身が編纂した原書の短編集がそのまま一冊邦訳されるとは限りませんし、アジモフという著者自身も同じ作品をいくつものアンソロジーに重録することを否としない方でしたしね。

そんなこんなで、アジモフ博士の作品をトータルに追っかけるのはなかなか難しいです。
きちんと体系立てて読もうとすると、どぅしても未邦訳の作品にぶつかってしまいますしね。先生、書きすぎです(T-T)。

ロボット長編としては、「鋼鉄都市」(ハヤカワ文庫SF、福島正実 訳、原題「THE CAVES OF STEEL」(1953))→「はだかの太陽」(ハヤカワ文庫SF、冬川亘 訳、原題「THE NAKED SUN」(1957))→「夜明けのロボット()」(ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐 訳、原題「THE ROBOTS OF DAWN」(1983))の三部作があります。
これはこの後、「ロボットと帝国()」(ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐 訳、原題「ROBOTS AND ENPIRE」(1985))を経て、アジモフのもう一つの代表作「ファウンデーションシリーズ」へと繋がっていくんです。
「帝国」を純粋な四部作目、と見ることもできますが、私としてはあくまでもロボット長編シリーズは三部作で、「帝国」は橋渡し的な作品として「ロボット長編」ものでもあり「ファウンデーション」ものでもある点でちょっと分けて考えたいところです。

で。「帝国」のハードカバー版(私はこっちで持っています)の解説で関口苑生氏が「このシリーズはおそらくもう一作書かれることになると思われる。」と述べられており、ずいぶんと楽しみにしていたのですが、その後博士は「ファウンデーション」ものを立て続けに発表、1992年に没されてしまったために、ついに続編を読むことはできませんでした。
あるいは、80~90年代の初期ファウンデーションものがロボットものの続編としてのスタンスだったのかもしれませんが。

で、この「ロボット三部作」の二作目と三作目の間に、実は話の中継ぎとなる短編が存在します。
「ミラーイメージ」(1972)という作品で、邦訳はハヤカワ ミステリマガジン'77年4月号初出、「SFミステリ傑作選」(講談社文庫、風見潤 編、(1980))収録なんですが、…絶版(T-T)。

私、これ、かなり長い間探しているんですが、どぅしても見つけることができません。
もしどなたかお持ちであれば、一度お貸しいただけないでしょうか。どーしても読んでみたい一作なんです。あうぅ。

原著としては「The Best of Isaac Asimov」「The Complete Robot」「Robot Visions」に収録されており、いずれも現在まだ流通しているらしいので、どぅしても邦訳が読めない場合には原書を買おうかなぁ、とも考えてはいるんですが。

でも、どぅせなら日本語で。

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